炭酸水が冷えていない

コメント適当にして下さい(´◜ᾥ◝`)

晴れとハレと春

 

[学位授与式を終えて]

 

お日様燦燦。

 

 

4年間大学生活を送っていたらしいがその実感はあまりなく、高校の3年間よりも短いものだと改めて思う。

 

 

午前中に行われた学部での学位授与式は、会場も遠く昼夜逆転中の身からすると

 

苦行でしかないため悩むことなく欠席 ( 周りの友達もほとんど行かない様子 )

 

 

 

 

 

大学初期に友達になった学科の友人と桜を背景に写真を撮った。

 

あと2人いるのだが、そのようなタイプではないので写っていない。

 

それも一つの思い出。

 

 

 

集団行動が苦手な自分はサークルメンバーから逃げようとした所

 

仕組まれていたかのように見つかってしまい写真を撮ることになった。

 

 

 

 

人が多いと苦手な理由はよくわかっていない

 

たぶん気を使うアンテナが疲れたり、何もしない時間があることが耐えきれないことだと思う。

 

「自分がいなくてもいいなら帰りたい」というデッケー態度もどうにかせねば。

 

居場所を与えてもらっているだけでも感謝せねばならない...

 

難しいね〜

 

 

 

 

 

後輩からの色紙を見て、反省することがあった。

 

自分はまともに書いていなかったが、ちゃんと俺宛てに書いてくれていた。

 

感動した。

 

 

 

素直に頑張ろうと思いました。

 

 

 

 

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短編集

 

卒業論文、卒論発表が一通り終わって自由な時間が生まれた。

 

同学年(主に高校)の知り合いや友人たちの詳細をあまり知らないが、

 

4月からは皆それぞれの場所でそれぞれの職務をこなすことになる。

 

大学生活を延長させてもらった身としては気楽な分だけの重みがのしかかる。

 

先のことを考えないといけないから気を抜いている暇はない。

 

 

がんばりまひょ。

 

 

メモ帳に思いついたことや整理したいことがたまったので吐き出す。

 

 

 

運とか確率とか

 

運ゲー」という言い方はあまり好きではない。

 

実力と運どちらか100%ではなく、結果的には両方必要だと思う。

 

結局は確率と結果論の話ではあるが。

 

 

 

人生でも本人の実力の影響があれば、生まれ育った環境(=運)やその一瞬の運にも影響がある。

 

完璧な実力でもなければ、完璧な運で成り立つわけでもない。

 

恵まれた環境に身を置いた方が良い方向には行きやすいし、その中でも反例もある。

 

「その方向に行きやすい」という確率が上がる(=運がある)

 

また実力でも生まれ育った環境という運をどうにかすることもできる。

 

逆に悪い環境にあったからこそ這い上がれたと感じる場合もあるが、結果論でしかないのは承知の上だと思う。

 

 

 

 

自分が好きな麻雀もそう。

 

いくら良い手でも勝てないときは勝てないし、どんな状況でも勝ちに持っていけることもある。

 

だからといって適当に打って勝てるような甘いものではない。

 

その一瞬を見れば、運次第と言えるが、

 

麻雀は1試合で実力を決めるのではなく、試行回数を増やしていくことで少しずつ実力の差が見えてくる。

 

サイコロは何千,何万回と振り続けて、結果としてその目が出る確率に収束する。

 

数回サイコロを振っただけでその確率になるわけではないのは全員知っているはず。

 

麻雀はその場で最も良い手を打つことで、負ける確率を減らすことしかできない。

 

その一回ではそのときの運であるが、何回も繰り返していけばその実力は、その一手の重みは結果に現れてくる。

 

 

結局、何が言いたいかというと

 

何事に対しても自分のやるべきことや自分に良いことは誰にもわからないから

 

自分が思う最善手を打って、あとは進むしかない。

 

自分が正しい道を歩んでいることをただ信じて。

 

 

(かっこつけすぎたな、あとから見返したら死にたくなるかもしれない。死ぬなよ)

 

 

 

 

 

野生の人間

 

野生の人間ってどうなるんだろう。

 

でも人か動物かが育てないといけないから難しいな。

 

今の人間が野生の人間か

 

 

 

 

と不

 

信用できる媒体ってなんだろう。

 

テレビ, 新聞, ラジオ, ネット, SNS, 本, 教科書...

 

情報を得ることが容易い世の中であるからこそ別角度の意見が見られる。

 

 

オセロの石の黒色だけを見て、「これは黒色だ」という主張と

 

その逆から見て「いや、白色だ」の主張で言い合いを見るのは不毛。

 

 

自分が見ている立ち位置を変えていき、その物事の背景を考えてから判断するしかない。

 

 

 

教科書とかどうだろう。

 

教科書もある意味で洗脳と呼べるが、洗脳じゃない教育とは?

 

理数系は実験して証明していけばなんとかなるかもしれない。(本当は間違ってるものもあるかもしれない)

 

これらを子供たちで考える時間があまりにも膨大だから、結果的に詰め込み教育になってしまうのだろう。

 

この辺をうまく改善できるような方法がないかなとよく考える。

 

歴史は事実がねじ曲げられていたり、残っている文献でも書き手、もしくは読み手の感情に依存してしまう可能性があってなかなか手強い。

 

 

 

何を基準に「正しい」と言い切れるのだろう。

 

また、その基準が「正しい」となぜ言い切れるのだろう。

 

洗脳されている人はどうやって洗脳されていることに気付けるだろうか。

 

洗脳されている人が別の洗脳されている人に「あなた洗脳されているよ」と。

 

俺もきっと洗脳されているし、あなたも洗脳されているかもしれない。

 

 

 

何を信用すればいい?

 

 

 

自分が受け取ったものを信用するしかない。自分の生きる世界だから。

 

正解と不正解ではなく

 

見えたものについて自分がどう思うかだけでいいのではないか。

 

もし別の人と意見が食い違えば、

 

「こういう視点だったらどう見える?」とその視点に連れて行ってあげればいい。

 

あとは本人次第。

 

それでも意見が合わないならそれでいいじゃない。

 

あなたはこう見えて、私はこう見えた。それだけ。

 

食べ物の好き嫌いを他人がとやかく言ってもしょうがない。

 

 

 

 

自分たちが影響する政治などはどうすればいいかわからない。

 

一つの政策で良いことがあれば悪いこともあるだろうし。

 

両方の意見を身近に聞いてあげられるような政治家になってみたいなと思ったり。

 

意外と政治家とか先生になってみたいという感覚はある。

 

 

 

 

 

 

今回はこんな感じかな。

 

いつもの通り、適当に殴り書きしたから抜けてる部分とか意味不明なところあるかもしれないけど面倒なので推敲しません。

 

 

 

 

 

大人になったなと感じるとき

 

はてなブログの「今週のお題」という物を見つけた。

 

 

今週のお題「大人になったなと感じるとき」

 

 

しょーもないことであるが、大人になった、成長したと感じたことを書こうと思う.

 

 

1.「 踊る!さんま御殿!!」が面白いと思ったとき

 

  小学生のころ,親が見ているときに一緒に見ていたがあまり面白さを感じなかった。

 

  つまらないまで思っていたくらいだった。

 

  唯一,視聴者投稿の再現VTRは面白かった。そこだけ放送して欲しいくらいだった。

 

  毛嫌いしていたがある日にふと番組を見てみると気がつけば最後までテレビの前で見入っていた。

 

  アニメや企画物のバラエティ番組ではなく、普通のトーク番組で面白さを感じたときは少しは大人になったのかもしれないと今思う。

 

 

2. ゴボウ天うどんが頼むようになった時

 

  小さい頃、うどん屋に行けば必ず「海老天うどん」を頼んでいた。

 

  しかし、自分でお金を出すようになって海老天うどんは他のうどんに比べて少し高いことを覚えた。

 

  親がよくゴボウ天うどんを頼んでいたのを真似して頼んでみたら、思いの外美味しかった。

 

  そんなコスパも良く、満足度も高いうどんであるゴボウ天うどん。

 

  美味しさと経済を知る二つの意味で大人になった。

 

 

 

他に大人になったと感じる時は、追加していこう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

美的センス?

 

幼少の頃から図工や美術など自分の中にある何かをモノで表現する苦手だった。

 

 

いつもノリと勢いという波に任せっきりで舵を取らず作っていた。

 

 

新聞紙を丸めて「この形、〇〇っぽいな」みたいに

 

 

小学3年まではよく学校内での賞に選ばれていたような気がする。

 

 

 

遊戯王GX(TVアニメ)の「ネオス」というキャラクターから創り出した「ネオスサーカスドラゴン」は小学1年生で一番の思い出だ。(著作権は知らん)

 

 

 

いつからか波の勢いもなくなり、周りに比べると技術力も皆無。

 

 

漕ぐことも波に乗ることもできない船は置いていかれる。

 

 

作りたい感情は初めから存在していないので、苦手になっていった。

 

 

 

中学時代(美術の押し付け)高校時代(棒人間を描いてしまう)は酷すぎるので割愛。

 

 

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洋服などのファッションセンスも正直わからない。

 

 

このデザイン好きとかカッコいいとかあまり気にしなかった。

 

 

派手すぎるものじゃなければなんでも良いと思っていた。

 

 

着心地のいいスーツが有れば良いくらいにはシンプルなものが好き。

 

 

 

 

 

 

ふと腑に落ちるようなファンションの美感覚が生まれた。

 

 

派手ではない上品なものが良いと考えているうちに「古き日本風(和服)のテイスト」は良いかもと思えてきた。

 

 

派手さではなく、質素の中にデザインを組み合わせる。

 

 

昔は当たり前で今は無くなってしまったものを現代風にアレンジ。

 

 

さらにはグローバリゼーション(国際化)が叫ばれる今日では、より日本という存在を示してもよいのではないか。

 

 

時代に逆らってる感じがしてカッコいいのもある。あまり誰もやってないしね。

 

 

1番の心配は機能性で、気候や精神的不快感があれば元も子もない話。

 

 

鬼滅ブームを上手く使っていい感じに馴染むといいね。

 

 

そんな服が見つかるといいな。

 

 

 

電子煙管も買ったことだし今欲しいのはセンスの良い扇子(激うまギャグ)と盃。

 

 

他に日本文化の小物が欲しいですな。

 

 

日本酒を飲めるようになり、日本人になりたい。

 

 

SAMURAIでも可。

 

 

鬼滅の刃

 

鬼滅の刃を見たのは去年。

 

兄貴や友達が「アニメ良いよ」と教えてくれて, Amazonプライムで一気に見た。

 

初めてアニメを見た感想としては、作画がとても綺麗だった。

 

水や雷などの動きやSEは非常に迫力があり,魅入ってしまう。

 

内容としてはジョジョかな?と思ってしまうほど戦闘設定が似ていて、ジョジョ知っている人はほとんどそう思うんじゃないかな。

 

「鬼滅の呼吸設定」

 

自分は「ジョジョ信者」である。偏った見方はお見知り置き。

 

ジョジョ3部以降はスタンドが主なので、ジョジョの1,2部だけ。

 

水の呼吸 と 波紋の呼吸 , 太陽に弱い鬼と太陽に弱い吸血鬼、心が綺麗過ぎる主人公。

  

 ジョジョにおける波紋の呼吸は、太陽の光と同じ波である「波紋エネルギー」を身体から発生させ、日に弱い吸血鬼を倒す。

 

吸血鬼は太陽の光(日)に弱い → 太陽の光と同じ波である波紋エネルギー → それが呼吸で生まれる。

 

 

 

鬼滅の刃の呼吸は、祖である「日の呼吸」から基本,派生の呼吸が生まれる。

この「日の呼吸」が強い威力を持つ呼吸であることくらいしかわかっていない。

 

自分の思慮不足か,設定が難しくなることはしないのかわからないが鬼を倒すための呼吸の特徴があれば、鬼滅の呼吸設定がすんなり入ってくる。

 

日に弱い鬼 → 日の呼吸から派生した呼吸。

 

現実の伝承上で「鬼」は太陽の光が苦手という設定はないようで(参照:Wikipedia)、

ここで太陽の光が弱点という設定を追加するのではあれば太陽の光と呼吸を絡めてほしかった。

 

日の呼吸太陽の光 との関係性があれば呼吸設定に違和感なく受け入れられる。 

 

そもそも鬼を倒すための呼吸ではなく、ただの剣術の流派のようなものであるならば

別に呼吸設定はいらないのでは?呼吸ではなく構えとか(売れるには必要ではあるが)。

 

 

 

鬼滅の鬼 と 伝承の鬼 は そもそも全く関係ないなら別に構わないが...少し引っかかる。

 

この辺、知ってる人がいれば教えてほしい。

 

[補足]

ロンプク淳という番組で、鬼滅特集があった際に

福岡県の竈門神社の解説がありました。

鬼は火を嫌っており、鬼門に竈門を置いたという説があるみたいです。日と火ではまたあれだけど。

 

この違和感が面白さに関係あるか言われれば、全く関係ない。

 

ただ気にはなった。

 

 

 「メディアと鬼滅」

 

あと人気の要因でよく言われる「鬼側の目線」。

 

鬼になる前の人間での葛藤や苦悩があり、そんな悲しい境遇に同情せざるをえない読者が多い。

 

つまり、本当に憎めない敵役の存在

 

これって正直、よくある話(設定)ではないのか?

 

北斗の拳に出てくる強敵たちも各々の戦わなければならない理由や考えがあり、愛や悲しみに翻弄されつつ、ケンシロウと対峙していく。

 

少し違うかもしれないがジョジョ7部でも、自分のために動く主人公 VS 国のために動く大統領 という対立で、本当にどちらが正義なのかわからない構図で敵?を敵として見れないところもある。

 

 

何が言いたいかと言うと,なぜそこまで鬼滅をメディアで取り上げるものなのかという疑問である。

 

メディアで取り上げるほどの特徴,面白さがあるのか。

 

社会現象になるまでに面白いかと言われれば、自分はNOかも。 

 

バズるものとそうでないものは運なのかな。。。

 

メディアや著名人を動かしたものはなんだろう。

 

 

[蛇足]

「〇〇が売れた理由分析」とかあるけど理由を分析して、その結果を組み合わせれば売れるかと言われればそうでもないから分析する必要ってあるのかな。

 

 

[補足1] : いただいたコメント[つきちざむらい さん]より

受け入れやすさがジョジョや北斗などほかの漫画に比べて,鬼滅は受け入れやすいことは確かでした。

 

ここでオタク特有の嫌なところみたいなのには入りますが、 わかりやす過ぎる ことが逆に奥ゆかしさが足りないというか、深みがないというか、単純,素直というか。

 

そういう感想は確かになくはないな。

 

だからこそ他の漫画にも触れて欲しいのはある...。他にも良い漫画あるよ〜。

 

 そういえば母が見た感想で「幼い」と言っていたのを思い出しました。

 

 

 

 

 

このくらいで鬼滅の違和感の話は終了。

 

いろいろ言いましたが鬼滅は展開も速く, キャラが立つし、デザインも良いから普通に面白いし好きです。

 

作品をディスるわけではなく,一つ目は気になった点と二つ目はメディアの疑問。

 

漫画も全巻見て, 映画も見に行きました。

 

原作も見ていたので泣かないように頑張って耐えたが、ボロボロ泣きました(涙)。

 

あの映像と音響は映画館でしか味わえないのでぜひ映画館で見てほしい...

 

見なさい。

 

ミロ。

 

 

映画館は良いぞ。

 

 

 

 

 

ここからネタバレかも。

 

 

 

 

 

 

 

ほぼ映画で初登場の煉獄さんの生き様があの120分にみっちり詰まっていた。

 

かっけえよ、煉獄さん...

 

作画が良すぎた。雪の描写って絵なのか実写なのかわからないくらい滑らかで驚き。

 

作画が良いのは周知の事実だが、BGM,音響も負けじと素晴らしかった。

 

BGMのタイミングや緩急、迫力で身体が震え、興奮してしまった。

 

BGMがなければ泣かなかった(断言)。

 

 

 

 

 

そして感想。

 

 

泣きポイント3つ。

 

1. 炭治郎の深層心理の中の小人たちが子供を核まで連れて行ったところ。

 

映像が綺麗で,俺の心まで洗われた。炭治郎、優しすぎだろ。

 

心が暖かくなった。

 

2. 煉獄さんのお母さまが見えたところ。

 

泣いた。頑張ったよ煉獄さんは...。

 

3. 伊之助が言ったセリフ。

 

「悔しくても泣くんじゃねえ。どんなに惨めでも恥ずかしくても生きてかなきゃんだぞ。」と泣きながら言っていたところ。

 

普段はあまり人に気遣う素振りを見せない伊之助が泣きながらこのセリフを言って、伊之助の心の奥が見えた。生きていくというセリフが自然の中で伊之助の人生観なのかな。

 

 

笑ったシーン

 

1. 煉獄の兄貴

なんやこれ。

 

2. 言うはずがないだろう、そんなことを。俺の家族が!

シュールで笑った。正論。

 

3.泣いていたカラス

お前も泣くのか(涙)

 

 

 

 

 

 

 

今回はこんなもんかな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ノイズ

椅子に座り続けると腰が痛くなることを身をもって知りました。

 

よくデスクワークで腰や首を痛めると聞くが,実際少し凝る程度のものだと過小評価していた。

 

想像以上に痛いわね。これは。

 

たまに寝っ転がらないと腰が痛くて集中できない。

 

ゲーミングチェアとか良い椅子があれば買いたいな。

 

寝具や椅子などのオブジェクトは1日で使用する割合が必然的に多くなるからお金をケチらない方がいいのかもしれない。

 

 

 

 

家にいることが多くなり,それなりにネットやテレビを見るようになった。

(元々見ていたが)

 

多くある情報から見たいものだけを見るという選択権は持ち合わせているのに

 

そう上手く取捨選択できない。

 

嫌なニュースや発言が目につく度に心が揺らぐ。

 

SNS(スマホ)やニュース(テレビ)自体を見なければ良い話だが、それなりに情報は得たいので思いっきり断捨離することは考慮していない。

 

そういった人向けに「おだやかツイッター」というGoogle Chrome拡張機能を作成している方がいる。

 

しかしPCやGoogle Chrome経由でツイッターを見なければならないので少し面倒臭い。まあそれくらいやれよ。

 

自分の見たい情報しか得ようとしないのは危険という意見もあるのは承知の上。

 

良い刺激になり新しいことにつながるかもしれないし、偏った考えになるかもしれない。

 

でもストレスでしかない。

 

「そういう考え方もあるのか!」と思うよりも「はあ...」と思うことの方が多い。

 

ただでさえ面と向かってのコミュニケーションですら難しいのに、

 

どこの誰かすら知らない人(botかも)と限られた文章だけで上手いコミュニケーションをとれるとはあまり思えない。

 

人それぞれにバックグラウンドもある。

 

性別,年齢,国などのレッテル貼りして言い切る、決めつけることは不毛ではないのかと思う。ましてや嘘か本当かどうかすらもわからないし、ただのbotかもしれない。

 

 

 

 

[本題]

RのNさんの優生思想(っぽい)発言がトレンド入り、このメモを書き残そうと思った。

 

まずはそのツイートを見た感想。

 

誰でも中学生くらいで考えたことあるような発想だな〜と。

 

でもそれって行き過ぎると危ない方向にも行くかもしれないから良くないよね。

 

実際に行き過ぎた結果が歴史上の過ちで存在するし、他の問題に繋がる可能性は出来れば作りたくない。 

 

良いものを残す ことが 良くないものを減らす ことになるかもしれない。

 

それによって現状の問題も解決されることもあるだろうけど、また別の問題が発生するから現状の問題をしっかりと吟味しないとより拗れてしまうかもしれない。

 

あくまでも可能性の話。

 

そういったことを考えると、

 

「人ともの,動物の違い」や「生命倫理,道徳」、「生きる意味」など

 

哲学(?)っぽいことも考えることになり、堂々巡りになるだけであるので

 

そういったちゃんとした機会に考えたい。(こういうことを考えてよく時間を無駄にする)

 

他にも書かないといけない気がするが,とりあえず終わり。

 

 

そもそもそれをツイートすることもロックって感じだし、その後冗談ですって言い足すのも最高にロックじゃないか。

 

 

 

[差別と比較]

 

自分でもよくわからなくなったので、一度言語化してみることに。

 

 

商品を購入する際には、AとBどちらが良いコストパフォーマンスか比較して選択する。

 

2人に告白された場合にも、AとBどちらが自分かつ相手にとって良いか比較して選択する。

 

これらは差別だろうか。

 

商品はものであるので不当な扱いをしても何も起こらないが、企業の人のことを考えると彼らは購入されなくて悲しむだろう。

 

AよりもBの方が顔が整っているからBと付き合うことはAに対する差別なのか?

 

Bと結婚したとすると、B以外の人すべてを差別しているのか?

 

差別 : 扱いに差を付けて分けること。

 

うーん、確かにB(配偶者)とそれ以外の人との扱いは変わってくるだろう。

 

これを言葉の意味どうりに「差別をしている」とするのを考えてみる。

 

確かに扱いは変わるから配偶者以外の人と配偶者Bの扱いを差別している。

 

この扱いの差によって不当性を感じるようであればそれは悪質な差別である。

 

配偶者であるからの苦労によるダメージも差別になるだろう。

 

つまり、差別は悪質な差別と無害な差別(悪質ではない)に分けられる。

 

良質な差別というと語弊を生み出しそうで使わない。

 

個人的な解釈では

 

差別 : 差を付けて分け、不当な扱いをすること。

 

である。分けること ではなく 不当な扱いをすること。

 

 

男女トイレを分けることは悪質ではないので無害。

 

女性専用車両は...今は勢いで書いているのでなんとも言えない...

男 : スカスカの女性車両に対して、密集する車内に押し詰められる。

女 : 痴漢や嫌がらせ。

 

優先度をつけるのも良くはないが、被害が多い痴漢に対策をとるべきかなぁ?

 

 

その対象者を不当な扱いをしていなければ差別ではないし、

 

不当な扱い(いじめなど)をしなければ、その人を嫌いになるとかは人の自由だと思う。

 

 

差をつけないために全員を好きになれとは言えないし、全員嫌いになれとも言えない。

 

かといって差別を全肯定するわけにもいかない。

 

二元論のような0か1のどっちかで決めつけられるほど、世の中の実問題は甘くないと思う。

 

その人その人にバックグラウンドがあるように、同じジャンルの問題一つにも考慮しなければならない点が複数存在することを考えていこう。

 

 

 

 

 

相変わらずの行き当たりばったりの殴り書きであるので、意味不明な文脈になってしまった。

 

時間があれば(ない)、また書き残そうと思う。

 

ヤクザの文化人類学 ウラから見た日本

 

梅雨に入り、外でマスクすることが億劫になってきた6月。

 

湿度嫌いの私にとっては除湿は欠かせない。

 

除湿をすると肌寒くなってしまうので贅沢に布団に潜る。

 

こたつにアイス、冷房に布団。 禁忌。

 

 

 

自らタスクを作り出すことで忙しい雰囲気を出して身体を動かそうという目論見で

 

本を図書館から借りた。

 

 

その本が、「ヤクザの文化人類学 ウラから見た日本」(作者 : ヤコブ ・ラズ  訳 : 高井宏子  出版:岩波現代文庫) である。

 

導入

 

理系の学校に通っているが、実際に学問として興味があるのは文化人類学である。

 

大学の講義で、東北の「マタギ」について勉強したのをきっかけに興味を持ち始める。

 

簡単に単位が取れるという話でその講義を受ける人が多い中、一番前のめりになって毎週聴いていたのは自分だけではないだろうか。

 

なぜその道に行かないかというと金になりそうにないから、それにつきる。

 

 

 

 

 

小さい頃から「善と悪」や「0か1」、「白か黒」という二元論で物事を考えていた。

 

幼稚園での様子が「クソ生真面目」であった話を周りの人から聞くと

 

「そんな昔のことをよく覚えているな」という恥ずかしさ と

 

「周りに厳しすぎるだろう」と後悔の念が混ざった感情に苛まれてしまう。

 

 

つまり私の中では「悪」は根絶されるべきであり、全員が「正義」「善」とまではいかなくても、皆「普通」である秩序や安心のある社会を望んでいた。

 

 

ある日、言語学の教授が「悪いもの、無駄なものも愛するべき」と講義の流れで自論を述べ、衝撃を受けた。

 

今までの自分には、敵意しか存在しなかった。

 

そこに愛情を持つことを提案されたのだ。

 

人は理解できないものに対して恐怖や敵意を持つ。

 

確かに自分にとって未知である他者を理解をしなければ何も始まらない。

 

 

 

 

ということからヤクザの世界とはどういったものなのか興味が沸き、

 

この本を読むことにした。

 

 

 

内容

 

あらすじとしては、外国人の研究者である筆者が実際にヤクザの世界に触れ、その中でヤクザの実態や現実を分析していくものである。

 

親分や子分にインタビューを行ったり、集会やイベント、祭りのテキヤに参加したりするフィールドワーク的に情報を集めていた。

 

他にも様々な実例や本、映画などから分析を行っている。

 

 

ヤクザは日本文化の一部(日本人の精神状態の1つ)であることが述べられていた。

 

生得的にヤクザになるのではなく、自己のアイデンティティの枠組みを作るためにヤクザになる。

 

また右翼活動により、ヤクザの暴力性を国家の暴力性によりの正当化する流れも腑に落ちた。

 

「ヤクザから見たカタギ」を理解することもヤクザにならなければできないが、この本によって知ることができた。

 

ヤクザの道徳性や必要悪や犠牲、カタギの方がよっぽど悪いという感情。

 

 

カタギからの依頼を受けることもあるヤクザ(弁護士のように)。

 

そこでヤクザが一方的に「悪」であるとカタギが決めつけることは都合が良すぎる。

 

 

さらに内容を詳しく書くと長くなるので割愛。

 

 

読んでいるとヤクザにも同情(もちろん非合法行為は認めない)や、カタギである我々にも考えなければならないことが多いと思うようになった。

 

物事は多面的に捉えなければ肝心なモノを見逃すことを改めて実感した。

 

 

 

 

 

「祭り」

 

祭りの出店などのことをテキヤといい、現在はわからないが昔はヤクザが執り行っていた。

 

出店の配置(重要らしい)や場所代、光熱費などは親分(上の人)が管理している。

 

祭りでは家でも作れるのに焼きそばを食べるのか、普通に買った方が良いのに射的をするのか。

 

なぜならば買い手と売り手にその世界観を楽しむという「不信の自発的な停止」が存在していると筆者は答えた。

 

演劇を見る際、私たちは舞台上の出来事を本当のことのようにして楽しむ。

 

そうやって別の世界に触れることで現実からの開放を望む。

 

 

 

数年前にYoutubeで「祭りのくじ屋の闇を暴く!」といった動画が挙げられた。

 

くじを全部買うと言い、くじの中に本当に大当たりが存在するのかどうかを調べる内容だ。

 

 

テキヤの方もある程度苦しい言い訳のやりとりをしている。

 

ゲームのハードの当たりの子供はいないが、ソフトならいるみたいなので

 

ある程度の当たりは用意してあるのではないかと思う。

 

大当たりくじの疑惑を突きつけられたら、あらかじめ用意しておいた大当たりを見せれば良いだけ。

 

それを箱の中には入れないようにすれば良い。

 

大当たりの真偽を確かめるのは不毛である。

 

 

 

冷静に考えて、使い古したようなボロい出店で大当たりの大盤振る舞いができるだろうか。

 

スポンサーもなければ、大規模でもない。

 

当たらなくても不思議ではない。当たらない方が自然かもしれない。

 

 

大人はそんなこと承知で黙って子供のくじを許可する。

 

子供はその経験からこういうものは当たらないし、普通に買う方が得であることを学ぶ。

 

親にただ言われるよりも自分で経験する方が子供も納得し学習するだろう。

 

そうやって世間を知っていくのも今までの流れかもしれない。

 

 

 

出店のくじも世界観を楽しむものである。

 

別に大当たりのくじを入れないことを正当化しているわけではない。

 

ただ別の世界を提供している祭りにおいて、そういったマジレス(その場の空気に合わない正論を述べること)をするのは、少し違うような気がする。

 

 

ディズニーランドでミッキーの中の人の話をすることに近いかもしれない。

 

 

そもそもゲームのハードを置かなければ良いが、子供は夢を見れなくなり、そもそもくじを引かなくなるかもしれない。

 

そして経営できなくなって祭りが衰退、消滅。

 

 

1番の大当たりが「ラジコン」だとすれば現実的な経費になりそうである。

 

お祭りなのに現実的なのはいかがなものか。(そんな祭り消えて良いというのは...)

 

 

 

そのようなくじの店が無駄であると言うならば、他の出店も無駄になってしまう。

(焼きそばやたこ焼きは家でも食べられるし、清潔面、金銭面にも明らか。出店にしかないものだろうと専門店や通販などで良い。)

 

 

実際のところ、私はお祭りで物を買わなくなってしまった。それはそれで悲しい。

 

 

お祭りに参加できない身体になってしまった・・・。

 

 

 

 こういった背景を汲み取るとただただテキヤの人たちが持ち場を荒らされて可哀想と思えるようになった。 

 

 

ちなみにYoutubeの動画以前の私は見て、「くじの店全部潰れろよ」と思っていたが

 

そういったいろいろな背景、側面も知らずにバッシングするのは愚かであったと反省している。

 

 

 

メモ : 出店くじでのゲームのハードは法律の「景品類」に含まれないらしい。

ある動画でこのことについて言及して警察にまで行っているが、その店に謝罪をしているような様子がなくて少し気になる。間違った情報で散々荒らしておいていいのかな。 

 もしかしたら謝罪しているかもしれないのであまり言えないですが。

 

 

 

 

「逸脱」

 

この本の一番のテーマである「逸脱」。

 

逸脱・・・本筋や決められた枠から外れること。

 

この本では、一般社会の人々の反応によって「逸脱」が生まれる。

 

人々が反応を示し疎外することで、逸脱と感じて同じ立場のものたちで一体化する。

 

さらに逸脱が加速する。

 

逸脱集団が攻撃されやすく目に付くことでさらにイデオロギー的、構造的に強い集団のアイデンティティを身につけざるを得ないか、

 

強力な象徴やイメージを自己の中に組み込んでいくしかない。(ヤクザは神道天皇を組み込む)

 

 

 

 

この「逸脱」は差別の問題とも関係がありそう。

 

差別と感じた人は同じ立場のものたちで集団化する。

 

そのことでさらに逸脱、ここでは差別感が増す。

 

 

 

よく思っていたことがあって、

 

「〇〇差別だ」と叫ぶ人がネットにいるが、その発言がさらに差別を深めているのではないか。

 

差別してる側は一面的にしか見ていないが、されてる側も一面的にしか見ていないことがある。

 

「差別」ではなく「同じ人間」ということを強める方が人々は疎外するような反応を示さない気がする。気がするだけ。私がそう思うだけ。

 

 

身近な関係においては その「差別であるもの」というレッテルを貼らずに、一個人としてその人を見てあげるのが一番良い。

 

この「レッテル」も本書において重要なワードになっている。

 

ヤクザと暴力団のレッテルが詳しく分析されている。

 

 

 

 

 

 

ただ書きたいことを書いただけであるので、整った文章ではないと思う。

 

なんとなく雰囲気だけ伝われば良い(5%くらい)

 

 

 

「ヤクザの文化人類学 ウラから見た日本」

 

非常に面白い本であったことは確かである。

 

 

 

 

1時間かけて作ったので疲れた。

 

 

 

今年は花火大会があれば、屋台のものを買いたいな。