短編集
卒業論文、卒論発表が一通り終わって自由な時間が生まれた。
同学年(主に高校)の知り合いや友人たちの詳細をあまり知らないが、
4月からは皆それぞれの場所でそれぞれの職務をこなすことになる。
大学生活を延長させてもらった身としては気楽な分だけの重みがのしかかる。
先のことを考えないといけないから気を抜いている暇はない。
がんばりまひょ。
メモ帳に思いついたことや整理したいことがたまったので吐き出す。
運とか確率とか
「運ゲー」という言い方はあまり好きではない。
実力と運どちらか100%ではなく、結果的には両方必要だと思う。
結局は確率と結果論の話ではあるが。
人生でも本人の実力の影響があれば、生まれ育った環境(=運)やその一瞬の運にも影響がある。
完璧な実力でもなければ、完璧な運で成り立つわけでもない。
恵まれた環境に身を置いた方が良い方向には行きやすいし、その中でも反例もある。
「その方向に行きやすい」という確率が上がる(=運がある)
また実力でも生まれ育った環境という運をどうにかすることもできる。
逆に悪い環境にあったからこそ這い上がれたと感じる場合もあるが、結果論でしかないのは承知の上だと思う。
自分が好きな麻雀もそう。
いくら良い手でも勝てないときは勝てないし、どんな状況でも勝ちに持っていけることもある。
だからといって適当に打って勝てるような甘いものではない。
その一瞬を見れば、運次第と言えるが、
麻雀は1試合で実力を決めるのではなく、試行回数を増やしていくことで少しずつ実力の差が見えてくる。
サイコロは何千,何万回と振り続けて、結果としてその目が出る確率に収束する。
数回サイコロを振っただけでその確率になるわけではないのは全員知っているはず。
麻雀はその場で最も良い手を打つことで、負ける確率を減らすことしかできない。
その一回ではそのときの運であるが、何回も繰り返していけばその実力は、その一手の重みは結果に現れてくる。
結局、何が言いたいかというと
何事に対しても自分のやるべきことや自分に良いことは誰にもわからないから
自分が思う最善手を打って、あとは進むしかない。
自分が正しい道を歩んでいることをただ信じて。
(かっこつけすぎたな、あとから見返したら死にたくなるかもしれない。死ぬなよ)
野生の人間
野生の人間ってどうなるんだろう。
でも人か動物かが育てないといけないから難しいな。
今の人間が野生の人間か
と不
信用できる媒体ってなんだろう。
テレビ, 新聞, ラジオ, ネット, SNS, 本, 教科書...
情報を得ることが容易い世の中であるからこそ別角度の意見が見られる。
オセロの石の黒色だけを見て、「これは黒色だ」という主張と
その逆から見て「いや、白色だ」の主張で言い合いを見るのは不毛。
自分が見ている立ち位置を変えていき、その物事の背景を考えてから判断するしかない。
教科書とかどうだろう。
教科書もある意味で洗脳と呼べるが、洗脳じゃない教育とは?
理数系は実験して証明していけばなんとかなるかもしれない。(本当は間違ってるものもあるかもしれない)
これらを子供たちで考える時間があまりにも膨大だから、結果的に詰め込み教育になってしまうのだろう。
この辺をうまく改善できるような方法がないかなとよく考える。
歴史は事実がねじ曲げられていたり、残っている文献でも書き手、もしくは読み手の感情に依存してしまう可能性があってなかなか手強い。
何を基準に「正しい」と言い切れるのだろう。
また、その基準が「正しい」となぜ言い切れるのだろう。
洗脳されている人はどうやって洗脳されていることに気付けるだろうか。
洗脳されている人が別の洗脳されている人に「あなた洗脳されているよ」と。
俺もきっと洗脳されているし、あなたも洗脳されているかもしれない。
何を信用すればいい?
自分が受け取ったものを信用するしかない。自分の生きる世界だから。
正解と不正解ではなく
見えたものについて自分がどう思うかだけでいいのではないか。
もし別の人と意見が食い違えば、
「こういう視点だったらどう見える?」とその視点に連れて行ってあげればいい。
あとは本人次第。
それでも意見が合わないならそれでいいじゃない。
あなたはこう見えて、私はこう見えた。それだけ。
食べ物の好き嫌いを他人がとやかく言ってもしょうがない。
自分たちが影響する政治などはどうすればいいかわからない。
一つの政策で良いことがあれば悪いこともあるだろうし。
両方の意見を身近に聞いてあげられるような政治家になってみたいなと思ったり。
意外と政治家とか先生になってみたいという感覚はある。
今回はこんな感じかな。
いつもの通り、適当に殴り書きしたから抜けてる部分とか意味不明なところあるかもしれないけど面倒なので推敲しません。